無空さんのセッション14回目

無空さん

限りない感謝を捧げます


もう14回目

まだ14回目です


感覚的には200回目ぐらい…

何度お話を伺っても


心が未熟です

申し訳ありません



今回も

ねっとりとしつこい自我が炸裂の

セッションの感想です

(一部抜粋です)




青さん

メールありがとうございました。




無空さん


今日は1時間後に泣いています




これから男も女もない純粋な意識ですというところで

以前青さんのメールで書かれていた神宮でのお祈り、

『真我実現に堅固な心をとお願いしております
それに向かうなかで
このとらわれているエネルギーの感覚が
なくなり感情的にも
エネルギー的にも落ち着いた日々が送れますようにとお願いしました』

一番核である
本心の部分を応援するということで
純粋意識について、それは男性でも女性でもないとお話し、
そこでは今起こっている現象に捉われることはないということを
お伝えしたつもりでしたが、もうひとつのパターンの方に
ひっかかってしまったようですね。

全体を読ませていただき、また、これまでの状況を見ていると、
もともとお持ちのパターンや、起こってくる感情などが
やはりクンダリーニによって強めらているのかもしれませんね。

2回目のセッションのときに
私が「もう人ではありませんね」とお話ししたのを覚えていただいていますか?

あの時はもう少し感覚的で薄い認識でしたが

今回もそのように
さらに中性になっていきますと言われて

ここも、単純に「在る」は中性であるということをお伝えし、
これから、さらに透明になっていくと、望まれているように、
今煩わされている現象を超えていくことができるということを
お伝えしたつもりでした。


上に書かれてある

「これから男も女もない純粋な意識です」というところもそうですが、

私自身は、表現も書かれてあるような表現ではなかったと記憶していますが、
もしかしたら流れでそのように出てしまったのかも知れませんし、
青さんが、マインドを通してそのように聞かれたのかもしれません。

いずれにせよ、
純粋意識・在るを確立したからと言って、
男性性、女性性がなくなる訳ではありません。
それを超えたもの(純粋意識・真我・空・在る・愛)をベースに、
現われのレベルでは男性性、女性性がよりクリアに、
よりトータルに開花していくでしょう。
(洗練された男性性、女性性という感じでしょうか。)
また、真我を知ったとしても、それぞれのタイプもあり、
現われ方は無限に多様です。


ますます
それではなぜ
この肉体を(女性)を持ってこの世にいますか?

が突きつけられました

何かをきっかけにこのパターン(問い)のところにやってきますね。
これからも起こってくるかもしれませんが、
これがパターンだということをよく覚えておいてください。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」から、それぞれ違う視点からですが、
ご参考までに。

『質問者:
クリシャナムルティも気づきのなかに生きることを語っています。

マハラジ:
彼はつねに究極を直指している。
そうだ。あなたの言うとおり、究極的にはすべてのヨーガは意識(花嫁)と生命(花婿)の
結婚であるアディ・ヨーガに行き着く。
存在と意識(サット-チット)は至福(アーナンダ)のなかで出会うのだ。
なぜなら、至福が訪れるにはそれに出会いが、接触が、二元性のなかでの統合の主張がなければ
ならないからだ。

質問者:
ニルヴァーナ(涅槃)を達成するには、人は生きている存在へと進まなければならない、
と仏陀もまた言っています。
意識は成長のために生命が必要なのです。

マハラジ:
世界そのものが接触だ。
世界はすべての接触の全体が意識のなかで実現されたものなのだ。
魂が物質に触れて意識が起こる。
この意識が記憶と期待に汚染されるとき束縛となる。
純粋な体験は束縛しない。
体験が欲望と恐れに捕らえれて不純になり、カルマをつくり出すのだ。

質問者:
統合のなかでの幸福がありうるでしょうか?
すべての幸福は必然的に接触を暗示します。
それゆえ、二元性を生み出すのではないでしょうか?

マハラジ:
葛藤をつくり出さないかぎり、二元性には何の問題もない。
争いのない多様性と多彩性は喜びだ。
純粋な意識のなかには光が在る。
暖かさには接触が必要だ。
存在の統合の上には愛の統合がある。
愛が二元性の意味と目的なのだ。』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『質問者:
ひとつだけ理解できないことがあります。
あなたは内なる自己を、賢明で、善であり、美しく、あらゆる側面で完全だとし、
個人はそれ自身存在をもたない、単なる反映だと話しています。
その一方、あなたはたいへんな困難も顧みず、個人にそれ自身を実現させる助けをしています。
もし、個人がそれほど重要でないならば、なぜそれほどまでしてその幸福を気にかけるのでしょうか?
誰が影のことを気にするでしょうか?

マハラジ:
あなたは存在もしないに二元性をそこにもちこんだのだ。
身体があり、真我が在る。その間にマインドがあるのだ。
そのマインドのなかに、真我は「私は在る」として反映されている。
マインドはその不完全さ、その未成熟さと落ち着きのなさ、識別と洞察の欠如ゆえに、
それ自身を真我ではなく身体と見なしてしまうのだ。
必要なことはマインドを浄化することだけだ。
そうすれば、真我との同一化を実現することができる。
マインドが真我のなかに没して消え去るとき、身体は問題を呈しなくなる。
それはそれであるものとして、認識と行為の道具、内なる創造の炎の表現としてとどまる。
身体の究極的な価値は、宇宙全体である普遍の身体を発見するために仕えることだ。
あなたが顕現のなかで自分自身を自覚するほど、あなたはあなたが想像していた以上のもので
あったことを、絶えず発見し続けていくのだ。』


そのときにも
伺っていました
なぜこの体がありますか?と

すると
無空さんはそれは
リーラとおしゃっておられました


今日のセッション1時間前まで泣いていましたが
そのあたりがどうしても抜け出せないところです


焦らずにいきましょう。





今日のセッションは
始まる10分前には気持ちよくたぶん共鳴状態ですね
ほとんど記憶がないところにいましたが

始まって
お話は男も女もない個人を落とす
個人を超えたところと

前回も 青さんという言葉で導いていただいておりましたが

もうすでに
男も女もないところで生きてきたのに
さらに、いったいどうあればいいのでしょうか
と言う感じでした

悩み、悲しみ、苦しみのもとである自我を浄化し、
透明にしていくということですね。
理解が助けになります。
自我・個人は海の波のようなものです。
自我は、海の表層の状態のひとつである波が起こっているときに、
波がそれ自体を他のすべての波と分離し、
独立して存在していると思い込んでしまったようなものです。
それはただの思い込み、傾向、習慣による見方・視点からくるもの、
自己理解の認識違いからくるもので、
どんなときでも真実は、海そのもの、すでにそれであるものです。



今回のセッション感想は

 (前半にお話に時間を取っていただいた為)

共鳴が短かったですが

最初の共鳴では内側の

味わいに囚われている私の感覚器官を

ぐっと外側にむけて広がっていきました

どこまでも広がっています静かな空間です

真我は広大さそのものでもあります。
とてもいい感じですね。


アイコンタクトでは

最初おでこが優しくそよそよとしてきましたが

気持ちよくなってきてぼーっとした状態に入るのかと思ったら

暖簾が目の前をサッと開ける様にいきなり

無空さんの顔もハッキリと見えました

すっきりとした感じでした

よりクリアになられましたね。

ハートの共鳴では

ハートと言う言葉で

胸のあたりいつも「在る」の中心を感じていたあたりですが

しっかりガードして押し返すような感じが起こりました

押し返しました~とお話しましたが

後ろから回ってきた気持ちよさに負けて目が開けられなかったです

え、そんなところから~と言った感じでした


いったい誰に

はむかっているのか・・・

共鳴のエネルギーを「愛」と受け取ることが

こわいのです

そのように受け取ってしまうマインドがあります

(しかしエネルギーとだけ受け取れば

本当に苦痛なだけのエネルギーの出入りとなってしまうのです)

マインドの純化、浄化、成熟が必要ですが、
今は仕方がない面もあると思いますので、
場合によっては、ハートの共鳴なしで行っていってもいいかもしれませんね。
基本的には、通常の共鳴の中にすべてが含まれていますので、
まったく問題ありません。


愛である

優しさである

暖かさであると言う感覚は

実際どこで感じているのでしょう


意識そのものは

意識そのもの

それを感じることが出来るのが

その意識

その意識があるから

ということでしたね

そうですね。
ただ意識と言った場合は、気づくことができる
と言い方をした方がいいかもしれませんね。

愛ややさしさ、暖かさを感じるといった場合は、
意識(真我)の別の側面であるハートで感じる
と言った方がより適切かもしれませんね。

または、愛そのものとして愛を感じている。
優しさそのものとして優しさを感じている。
暖かさがそれ自身を感じているというところでしょうか。



その意識は

「愛」

「安らぎ」

「優しさ」「強さ」

でもあるということですが

では自らがそのことを知るのに

自らがその美しさを知るのに



共鳴のメソッドは

トータルに「在る」に迫っています

そこに純粋な鏡として目の前に映し出してくださっておられます

ですが、では

それを

それと分かり感じるために

個別に分かれているのですか?


なぜ

個と分かれて

ここに?


何のために

もともとひとつであったものがなぜ

ここに?


新たな問いです

真我から起こってくることに、「なぜ」はありません。
ただそうであるから、そうであるのです。
それは自然本性によるものです。

もう少しマインドよりな視点から見ていくためのポイントをいくつかあげてみれば、

それはただひとつのものであり、それ以外何も存在しないということ。
そして、それは意識・知そのものでもあり、
その性質ゆえ、それ自身が在るということに気づく、
それ自身の存在を知るということが起こるということ。
あるいは、永遠に気づき続けているということ。
それ自身を知り続けているということ。

ここで、

ひとつであるものが意識であるがゆえに、

在る(不動・無為)=気づく・知る(動・行為)

ということが分ります。

その気づき、それ自身への気づきが、
それ自身の中で永遠に起こり続けているというのは、
例えて言えば、海(ひとつであるもの)があり、
そこに無限の波(気づきという動き・それ自身の中でのゆらぎ・振動)、
多種多様な波が起こっているようなもの。

その波が個人、そしてその他森羅万象であるというような理解も、
ひとつの見方としてはできるかと思います。

ですから、個人(波)は、ひとつであるもの(真我・実在・空・愛)が
意識であるがゆえに必然的に起こってくるということが言えます。

そして、その波である個人は、当然、そのまま意識(海)であり、
それが存在する(在る)という属性を帯び、
あるいは、それが反映され(すべての波に)、
(個人的な)「私は在る」が生まれ、波の数だけ無数の視点が現われます。

それ(真我・空・愛)はそれ自身の中で、
無数の視点(波・波である海、個・個である全体)を持ち、
それらの無限の相関関係、無限の反響、無限の共鳴の中で、
無限に、そして永遠に、それ自身を知り続けていきます。

自分自身が波(個)でしかないと認識しているうちは、
視野も狭く、波であるゆえにアップダウンがあり、
また、他の波(個)との関係性の中で、苦しみに巻き込まれることがありますが、
本当は海であることを再認識すれば、
分離していたと思っていたすべてはひとつであるということが分り、
ひとつの波(個)と現われている自分自身を含め、
すべての波を自分自身で在るものとして
認識、肯定、受容することができるようになります。
それが愛の状態でもありますね。

実在・真我は、ひとつのものであり、それが意識があるがゆえ

在る(不動・無為)=気づく・知る(動・行為)

であること

ただ在ることにより、すべては為される。

ただ在ることにより、そこからすべては意図せず、ただ起こってくる。

本当は何も起こっていない。

絶対安心。

絶対安全。

絶対大丈夫。

すでにそれである。

なども導き出されます。


まだまだ

なにも見えてきません

浄化、純化を続け、視界をクリアにすることです。

自らが「愛」と分かり

それを


生きたいです

すべては愛(ひとつ・全体)であり、
愛しか存在していませんので、
すでにそれ(愛・ひとつ・全体)であることは
絶対的な真実ですが、
長年の習慣からくる認識、視点がそれを見ることを困難にしています。
それ自身の認識を曇らせているものをクリアにし、
真の自己を知っていきましょう。









まだまだ時間がかかりそうです

何卒どうぞよろしくお願いいたします









全体で進んでいきましょう。

無空













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