無空さんのセッション87回目




無空さん

ご返信をありがとうございます



真我の視点である、今にすべてがある(今がすべてである)という理解からは、
今、この瞬間あるものすべて(全体まるごと)への完全な受容と調和、
あるいは肯定、あるいは、ただ気づいていること(愛)が大切です。




この視点から

外れている時は

本当にまったく

いつもの命の愛の味わいは感じておりませんね^^


どこか

過去や未来に焦点が移っているのかもしれません


そして

苦しいです

今の現実から逃げたい一心のようです





























青さん

感想ありがとうございました。


無空さん


人生の悩みを聞いていただきありがとうございました





ここにきて

「自然体で生きる」

青の自然体はどんな風なのだろう。。。

ひとつの視点からは、それぞれの方のそれぞれのプロセスに、
そのときそのときの真実があるように、
自然体というのも、それぞれの方のそれぞれのプロセスに、
そのときそのときの自然体があると言うことができますね。
それは、「あるがまま」とも同じことです。

真我を知らない状態でのあるがまま・自然体もあるでしょうし、
真我を知っても、まだ個人が主体で、そこからさらにクリアになっていけば、
落ちていくものがたくさんあるという状態もあるでしょうし、
存在全体がクリアになり、すべてが統合され、ある意味、真のあるがまま、
真の自然体が実現された状態もあるでしょう。

将来的に、このようになりたい、というようなものがあってもよろしいですが、
真我の視点である、今にすべてがある(今がすべてである)という理解からは、
今、この瞬間あるものすべて(全体まるごと)への完全な受容と調和、
あるいは肯定、あるいは、ただ気づいていること(愛)が大切です。

(必要があれば、その次の瞬間、何か行動が起こったり、時には抵抗や否定が
起こったり、ということはあるでしょう。
そして、抵抗が起こること、否定が起こることも、肯定しましょう。
ただ気づいて在りましょう。)

そのような在り方が次の瞬間への自然な橋渡しになり、自然な流れを生み出します。
落ちていくものは落ちていき、変容するものは変容し、変わらないものは変わらないでしょう。
あるがままです。


自分自身が生きるということは

いったいどういった状態なのだろう

お話をしながら

すぐに出る答えではないなあ~って思っていました

これを考えているのは、個人ですね。

(その背後、あるいは、核には真我がありますが。)

~の自然体、~が生きる、答えを求める者。

それはもちろんよい悪いではなく、今の自然体、今のあるがままですね。

今はそうである(愛)と気づいていることが大切です。




たしかに

深く生きることの本質を知ってきてはおります。。。

しかし

そのことと

今の日常生活が時々大きくずれているのか

それはずいぶん以前から

危機感として感じ続けていたものでしたが



無空さんの個人セッションが始まってから

次々と明らかになってきていた自分自身の感情やら

願いやら。。。


それらは精査されていきました

要らないものは落ちいきながら

日常はどのようにも変えていくことも出来るようにも思うのです

パートに出るといったことや

何か活動することや

自分自身がやりたいことをやりつづけていくことです

その中で、さらなるマインドの純化、成熟も起こっていくでしょう。

大きな視点から言えば、それは真我がやりたいことと見ることもできますね。



青は

本当に

自分勝手で

傲慢ものです




自分自身の生きたい

その魂の求めていたものは

一体なんだったのだろうかという思いです

愛そのものとして在ることを繰り返していけば、

それはさらに精査され、クリアになっていくでしょう。




またもや

共鳴で

いのちその

本質を知って

さらに

出てくる問いなのです

その問いが出てこなくなるとき、

ひとつの成熟の状態と言えるかもしれません。

それは出てくるうちは出てきます。

出てこなくなるまでただ出てきます。

そして、いつか出てこなくなるでしょう。




生きている

その現実は

尽きない探求の道でもあるのでしょうか

視点によりそうとも言えますが、

マインドの成熟はあります。

マインドの探求が終わることはあります。

真我それ自身が自分自身を無限に知っていくという

プロセスは、その本性により続いていく、ということが言えます。

マインドの探求は(その一番奥では、もちろん真我が働いていますが)、

ある意味、満ちていない状態での探求ですが、

真我それ自身の探求(無限であり、未知そのものでもある自分自身を無限に知っていくという意味で)は、

満ちたままでの探求です。

これでいいという状態でありながら、ただ自然にそれが起こっていく、

それ自身が知られていく、未知なる素晴らしきそれが自然に開かれていくという在り方です。




愛そのものが

答えそのものをいつも

連れてきていますよね

そうですね。

そして、それそのものがすでに答えとも言えますね。

愛(生命・真我・在る)そのものであること。

そこから「生きる」は自然に起こっていきます。

いのちそのものであること。

そうすれば、青さんがいつも言われるいのちの味わいは自然に味わわれます。

愛と言われる生命、

生命と言われる愛、

それだけがあります。




無空さんに

言われてみれば

幸せそのものである+家族のピカピカ


って最強ですね^^




しかしながら

常に誰かの期待をおいながら

自分自身の願いよりも

親や周りの見えないものの価値観などに左右されてここまで

生きてきました

前述したように、そのときに起こっていたことは、

個人の願いではなかったかもしれませんが、大きな視点からは、

個人にとって完璧で、個人にとって必要なものだったということも

言えるかもしれません。

(ただ、状況によりとてもそうだとは思えないような状況もあるでしょう。

ですから、個人を超えていくことが必要です。

個人を超えた視点から見ることができるようになることが、個人を救います。)



そこから離れた時に

本来の自分自身は

どう在りたかったのか


いえ

それも含めて

このようにここまできているのですが

これから先は

この本質を生きることを

どう表現していけるか

という根深い欲求不満です

そうですね。

何か根深いものがあるのかもしれませんね。

でも、大丈夫です。

愛そのものであれば、それは自然に表現されていくでしょう。

(主体・立ち位置が個人ではなく、愛の立ち位置に在れば、“表現していく”ではなく、

“表現されていく”、“表現が起こっていく”という表現になりますね。)

そして、その本質である愛が表現されていることに対して、

決して個人も不満ではないでしょう。










流れのなかで


起きて来ることは起きてきますよね

必要なら起きてきますという

以前聞いた通りだと思っています





なので

「ただそうである

あるがまま」という

無空さんの言葉を

深く

胸にしまって観てみます

はい。









さて

始めの共鳴は

「自分自身への感謝」と

心の中で唱え続けておりました

その感謝という言葉が

広がり爽やかな感じでありました

とてもいいですね。

まずは、自分自身です。

そして、そこから自然(自分自身の現れ)に周囲へと広がっていきます。





アイコンタクトは

深くリラックスしてスッカラカンでした


瞑想は

さらにさらに深くいのちでした

いのちの愛にひとつ



突然画像がスッキリとして

無空さんが映っていました

はじめに話されていたものが

ある程度クリアになったということかもしれませんね。



ハートの共鳴は曇り一つない


立場を変えては

まぶしく

懐かしく光だけ

私たちは光です

気づきの光、存在の光ですね。


立場なし・ニュートラルは

もともと立場などあったのでしょうか

深きいのちの愛


始めから

ここ

ここ以外にない

でした

はい、日常でも、何度もそこに戻りましょう。

個人も純化、変容し、満たされていくでしょう。





今日もすばらしい共鳴をありがとうございました

こちらこそありがとうございました。





PS

隣の部屋で

息子たちが声を合わせて歌っています

その声にあわせて

彦も歌っています


それが幸せでなくて

いったい何を求めているのでしょう。。。。。。





この瞬間というものは

いつも

幸せに満ちています


そうですね。

無空










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