無空さんのセッション155回目

無空さん

ありがとうございます





青さん

感想ありがとうございました。


無空さん


今日はセッションをありがとうございました


やっと仕事が終わり

聞き返しています




今週は

いろいろなことがありました


何からお話していいのか。。


とうとう

そのズレの正体にたどり着きました


分裂するのは当たり前のことだったのです

それほどの矛盾を抱えたままに生きてきておりました


「死んでしまいたい」ほどの悲しみや

焼け付くような渇の感覚などは

すべてここからきていたのです


それが

明らかになりました

明らかになったということは、

明るくなっていくということでもありますね。




優しい方に会いました

その方に接しながら思い出すことが起こったのです


これは

思い出さないといけなかったものでもありましょう


神様はいますか?

魂はありますか?

変な質問ばかり出てきていましたね


それは

本当に大切なキーワードだったのです


今もそれはハッキリと解明はされていませんが

その当時の私には

とても大切な言葉だったように思っています



自分は

とてつもない残酷な生き物だったのです

すべての可能性、無限の可能性の中には、すべてがあります。

起こりうるすべてがあります。

在るとは、そのすべてそのものであり、

また、そのすべてを同等に包むものです。

前述のご質問とあわせ、ラムサの言葉が思い浮かびました。

少し長くなりますが、ラムサ ホワイトブックから、ご参考までに。

*********

私の知る神、私の愛する神、
そして、私自身と私である王国から流れ出す力である神は、
完全なる愛の神であり、
裁きとは無縁の愛の神だ。
神は愛以外の何ものでもないが、
同時にそれ以外のすべてでもある。
あなたがこれまで思ってきたよりもはるかに大きな愛で、
神はあなたのことを愛している。
なぜなら、それはあなたである生命そのものであり、あなたが歩く大地であり、
あなたが吸い込む空気であるからだ。
それは、あなたの皮膚の色であり、素晴らしい眼の輝やきであり、
やわらかい手の感触なのだ。
それはあなた自身であるあらゆる瞬間の中のあなたであり、
あなたが考えるあらゆる思考の中のあなたであり、
あなたが行うあらゆる行為の中のあなたであり、
あなたの暗い陰の部分でさえある。
 
 神はすべてを包含する力であり、
それはあらゆるものなのである。
それは、水面の上を吹く風であり、色づく木の葉であり、
深い色合いのバラの単純さなのである。
神は抱き合う恋人たちであり、笑っている子供たちであり、
蜂蜜色をした髪の光沢なのだ。
それは朝に昇る太陽であり、夜に瞬く星であり、
真夜中の空に昇っては沈んでいく月なのだ。
神は美しい昆虫であり、謙虚に空を飛ぶ鳥であり、
酷く醜いミミズでもある。
神は、動きや色、音や光だ。
神は情熱である。
神は愛である。
神は喜びである。
神は悲しみである。
存在するもの、つまり在るものすべては、
あなたが「父なる神」と呼ぶものである。
それは生きとし生けるものすべてであり、
自分自身であるすべてを愛する存在なのだ。
 
 神は玉座に座りながら、
生きることすべてに関して審判を下す人格的な存在ではない。
神とは、生きることすべてであり、躍動するあらゆる瞬間なのである。
それは在るものすべてが絶え間なく存在し続ける姿であり、
その永遠性なのだ。
 
 生きることによって、あなたは審判を下されてきたと思うだろうか?
そんなことは決してない。
なぜなら、もし神があなたに審判を下すならば、
神はあなたでもあるのだから、
神は間違いなく自分自身を審判していることになるのだ。
至高の知性がどうしてそんなことをするのだろうか?
 
 あなたが「父」と呼ぶこの生命の力は、
あなたでも、他のどんなものに対してでも、
審判を下す能力など持ってさえいないのだ。
なぜなら、生命というものには、「良いー悪い」、
「正しいー間違っている」、「完全ー不完全」という風に、
自分自身を分割できる自我を持った人格などないからだ。
もし神が自我をもっていたとしたら、
自分の内面にそのような変質があれば、それを知覚することもできるはずだ。
そしてもし神がほんの一瞬であっても、
自分の存在の内面に起こったそのような変質のことを思い巡らすならば、
神自身である生命は次の瞬間には終わりを迎え、
もう二度と存在することはなくなってしまうだろう。
 
 神はそれ自体では、善や悪など全く持っていない。
それはポジティブ、ネガティブといったものも全く持っていない。
神は完璧でもない。
というのも、完璧さというものは、動き続け、変化し続ける、
この溢れ出るほど豊かな生命に制限を課すものだからだ。

神はただ在るだけである。

あなたが愛する「父」が知っているのは、
神自身であるすべてものがそれ自身の生命を表現していけるように、
ただ在ることだけなのだ。
 
 神は無限で至高の存在性、
すなわち分割できない存在性の総体のことである。
そして、その存在性はあなたをとても深く愛しており、
だからこそ、「完全ー不完全」、「良いー悪い」、
「ポジティブーネガティブ」といった幻をあなたに創造させてくれたのだ。
そして、神はあなたの知覚を通して、あなたが知覚したものになってきた。
つまり、神は在るものすべての総体なのだ。
それは神聖なるものだけでなく、卑しいものでもあるのだ。

「父」はこの瞬間でもいつの瞬間でも、あなたが生まれて以来、
一度も、あなたに審判を下したことはない。
「父」はあなた自身であったのであり、
あなたが自分自身の神聖なる自己、目的を持った自己を表現するための、
生命の基盤になってきたのである。
それはあなたに独自の自我を与え
、あなたが望む何にでもなれる自由、あなたが選んだ形で、
神自身である生命を知覚できる自由を、あなたに与えてきたのだ。
そして、これまであなたがしたこと、考えたことはすべて
(たとえそれらがどんなに下劣なこと、軽蔑すべてきことであっても、
あるいは素晴らしいことであっても)、
神はそれらを「在るもの」として以外、決して見たことはないのである。
 
 私の知る神はあなたがこれまで想像してきたものよりも
、はるかに大きくて深い愛であなたを愛している。
なぜなら、あなたが望むどんな生であろうと、
神はあなたがそれを創造することを許してきたからだ。
「父」は常にあなたを愛してきた。
神はこれ以外の見方であなたを見る方法を知らない。
なぜなら、「あなたであるもの」は彼そのものであるからだ。

 「父」はどんなものであろうと、それを間違いとして見ることはない。
彼が見るのは自分自身の姿だけだ。
彼には失敗もない。
彼が見るのは、
自分の存在性が永遠に向かってずっと続いていくところだけである。
あなたは人生において美しさを創造したり、
あるいは下劣ささえも創造したりする。
そのとき、「父」はその下劣さや美しさそのものになるが、
これらのどちらが偉大でどちらが劣っているかという風には、
決して価値判断を下さないのである。
彼はただ「在る」だけだ。
彼はその「在ること」そのものであり、
あなたが彼を通してどのように表現しようとも、
あなたにそうすることを許すのだ。

**********

さて、
あなたが自分の間違いや失敗だとみなしているものについて語りたいと思う。
人間が創造した、正しいー間違っている、完全ー不完全、といった概念は、
同時に罪悪感、自責の念という罠を生み出し、
それが人生において成長するのを非常に困難なものにしてきた。
だが、存在たちよ、もう一度言うが、
この天界でのあなたの数多くの人生の価値を考えれば、
あなたがこれまでにしてきたあらゆることは悪くもなく、また良くもないのだ。
それは単に人生におけるひとつの体験にすぎず、
今のあなたを作るのに役立ったのだ。
そして、それこそが、最も大切で素晴らしいことなのである。
なぜなら、この「今」という瞬間のあなたは、この驚くべき旅を始めて以来、
これまでで最も偉大だからである。
というのも、あなたの叡智はこれまでのどの瞬間よりも偉大だからである。

 あなたがこれまでしてきたすべてと、同じことを私もしてきたのだ。
そして、あなたの過ちと同じ数だけ、私も過ちを犯してきた。
強さと美徳が欠けているという風にあなたが
価値判断を下している側面についても、
私も同じものを持ってきた。
だが、自分の存在の弱さを知るまでは、
自分の強さを知ることは決してなかっただろう。
自分から生命の潮が引いていくのを見るまでは
、生命を愛することも決してなかっただろう。
そして、人間がもつ残酷さを軽蔑するまでは、
あなた方すべてを抱き容れることは決してできなかっただろう。

 あなたがこれまでにしてきたあらゆることは
(たとえそれがどんなに下劣で酷いことであっても)、
単に自分の学びの機会を創るためにしたことなのだ。
そして、その学びを通して、
あなたは傷つき、苦痛や悲しみを味わい、自分を貶めてきたが、
それでもあなたはそこから立ち上がったのだ。
なぜなら、今やあなたには、自分の本当の姿である美を知り、
それを抱き容れる準備ができており、
そのあなたが今ここにいるからである。

 自分が失敗した、あるいは何か間違いを犯したという風に思う者たちは、
次のことを思い巡らしてほしい。
あなたが生み出された瞬間から、あなたとあなたの愛すべき兄弟たちは、
すべての思考を感情的に理解していくという壮大な冒険を始めた。
思考から思考へ、そしてさらに別の思考へと。
あなたの魂はあなたの存在の神、
あるいはあなたの存在の聖霊を通してあなたが受け容れるそれぞれの思考
(つまり、神のそれぞれの側面)からの感情を蓄積するために創造されたのだ。
一つひとつの思考をあなたは受け容れ、魂の内で感じてきたが、
まだ完全に理解していない思考については、
魂はあなたがそれを体験するよう強く促してくる。
なぜか?
その思考のすべての側面について、
完全な感情的理解を得るためであり、それは体験によってのみ可能なのだ。
この体験こそが、生と呼ばれる価値あるものなのである。

 魂は未だ体験していないものを渇望する。
魂がある体験を渇望しているとき、
それは魂がその体験からの感情的なデータを必要していることを意味している。
それゆえ、魂は「欲求」と呼ばれるフィーリングを創り出し、
それがあなたの存在のすべてを捉え、冒険、
つまり、体験へと駆り立てるのだ。
そして、その体験が終わり、そこからの感情が収まるとき、
その体験は、あなた方の天界にある黄金のすべてよりも
素晴らしい宝物をあなたにもたらしたことになるのだ。
その体験は、あなたをさらなる叡智の中へと進めたのである。
その体験が叡智になったということは、
あなたの魂が
「もうこれは二度と体験する必要はない」と言っていることを意味している。
なぜなら、あなたはそこから得られる理解をすべて得たからだ。
それから、あなたの魂は今度は別のことを渇望し、
あなたは何か他のことをするように駆り立てられる。
なぜなら、あなたはそれをする必要があり、それをしたいからだ。
あなたの内なる炎が、
生きることのすべてを体験するようにあなたを強く促してくるからである。

 さて、自分が何かを体験しようとして一歩踏み出したとき、
それが自分にとって間違っているとか、
自分が失敗するとか知っていながら、
なおかつそうしたのだと思うだろうか?
それは違う。
あなたはいつもはっきりとわかっていなくても、
これまでにそれをやったことがないという理由だけで、
あなたはその冒険に乗り出したのだ。
その体験は新しい、わくわくするもので、
あなたはその体験から学びたかったのだ。
その生において、はっきりとした目的を持っていたのだ。
その後、あなたは感情と理解の中でのさらに別の冒険のために、
魂があなたに体験するように駆り立てた次の冒険へと乗り出したのだ。
そしてそれは、あなたの魂の内に、幸せと達成感をもたらしたのだ。

 あなたがすることは何でも、あなたがそれをやっているまさにその瞬間にも、
その体験が自分にとって正しいことを魂の内で知っているのだ。
その冒険と、その冒険から生じたフィーリングを体験してはじめて、
「たぶんもっとうまくできたのだろう」、
あるいは、
「違うやり方でできたのだろう」と
確かめることができる叡智として固まるのである。
その体験に乗り出し、そこから叡智という宝石を得るまでは、
もっとうまいやり方があったとは決してわからなかっただろう。
そんなことで審判を下されるべきだろうか?
そんなことはない。なぜなら、それは「無垢」と呼ばれており
、同時にそれは「学び」とも呼ばれているからだ。

 失敗というものは、
何かを失敗だと信じる者たちにとってだけの現実なのだ。
しかし、本当の意味で、生きることに失敗する者などいない。
誰もいないのだ。
あなたがやってきた数々の行い、
すなわち卑劣で軽蔑に値するような隠すべき行為
(実はそんなことはないのだが)にもかかわらず、
あなたは今でもなお生きており、
それこそが奇跡的な出来事なのだ。
「失敗する」ということは、「止まる」ということを意味している。
だが、止まることができるものなど何もない。
なぜなら、生命は絶え間なく続いていくものであり、
あらゆる瞬間ごとに前進しているからだ。
したがって、生きることにおいて、あなたは決して立ち止まったり、
後戻りしたりすることはできない。
生が絶え間なく拡大していく中で、それぞれの瞬間はさらに偉大な理解、
そしてそれよりもさらに偉大な理解を常にもたらし続けるからである。

 あなたは一度も失敗したことなどない。
つまり、あなたは常に学んできたのだ。
不幸になる前に、幸せとは何かをどうやって知ることできるのか?
自分の目標に近づいてみて、
それが自分で思い描いていたものと違う種類のものだったとわかる前に、
どうやって自分の目標が何なのかを知ることができるのか?

 あなたはこれまでに間違いを犯したことはない。
一度たりともないのだ。
あなたは決して間違ったことなどしてはいないのだ。
それゆえ、どうして罪の意識など感じるのか?
あなたのしてきたあらゆる間違い、失敗、誤りは、
より適切な言葉で言えば、「神へのステップ」と呼ばれるものだ。
そして、あなたが今知っているすべてのことは、
このステップを一歩一歩進んでくることによってのみ、
知ることができたものなのである。

 学びに対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。
叡智に対して、絶対に罪悪感を持ってはならない。
それは、「覚醒」と呼ばれている。
これまで自分は自分がする必要があったことをしてきたのだ、
ということを理解しなければならない。
すべては必要だったのだ。
そして、あなたはすべてにおいて、正しい選択をしてきた。
すべてにおいてである。
あなたは明日も生き、神に祝福されたその次の日も生きていく。
あなたはその次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。
そのとき、この今日という日に知っていたよりも
多くのことを自分は知っていることに気づくだろう。
だが、この今日という日は間違いではないのだ。
それはあなたを永遠の中へと導いてくれるのである。

 あなたはどんな夢であろうと、
自分の好きな夢を創造することを選べるのだ。
しかし、自分自身の意図的な理解のためにどんな夢を創造したとしても、
それはあらゆる場所にある意識全体をさらに豊かにするのである。
あなたはそこから何かを取り去るわけではない。
それは決してできないことだ。
あなたが喜んで乗り出すあらゆる冒険は、
生をさらに情熱的で鮮やかなものにしてくれる。
あなたが抱く思考、体験する幻、発見すること、
そして、あなたが行う下劣で酷いことはすべて、
あなたの理解を広げるのである。
そしてそれが今度は、人類全体の意識を養い、
それを拡大すると共に、神の精神をも拡大するのである。

 あなたが自分の人生において失敗した、
あるいは何か間違ったことをしてしまった、
という風に思っているとすれば、
あなたは自分自身の内面、外面の偉大さ、
そして人生全体の重要性に気づく力を減らしていることになる。
自分の過去のどの部分であろうと、
それを無くしたいなどと思ってはならない。
過去のどんな部分でもだ。
なぜなら、
あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験から生まれた独特の色合いは、
あなたの魂の内に美しい叡智の真珠を作り出したからだ。
それは、もう二度とそのような夢を見る必要はないし、
そのようなゲームを創造したり、
体験したりする必要もないことを意味している。
というのも、あなたはすでにそれらを体験し、
それらがどんな風に感じるかを知っており、
自分の魂の内にそれらに関する記録、
すなわち人生において何にも勝る本当の宝である
「フィーリング」と呼ばれるものを持っているからだ。

 あなたの人生は、あなたの内に宿る炎が生み出した
素晴らしい壮観だった。
それは敬意を払うべきもの、聖なるもの、
神なるものとして再評価されるべきである。
なぜなら、あなたが何をしようと、あなたは常に神だからである。
どんな仮面をつけようと、あなたは神なのだ。
いかなる人間関係を体験しようと、あなたはそれでも神なのである。

 あなたはこの人生の冒険に値するのだ。
あらゆる冒険に値するのである。
そして、それよりも、はるかに素晴らしいことは、
これから先あなたを待っている輝かしい冒険にも値するということである。
だが、これまで自分がしてきたすべてのことは、
単に
自分自身である神についての理解を得るためだったということに気づくまでは、
あなたは決して「神なる自分」になることもなければ、
永遠の扉をくぐることもない。
あなた自身である神は、人生という舞台でのあなたのあらゆる体験を通して、
今ここで実演されているのである。

 自分の背中にのしかかる重荷を抱えている者は、
もしそうすることが自分を幸せにするのであれば、そうしなさい。
だが、もしそれらから学ぶべきものをすべて学び、
うんざりしてるのなら、そんなものは捨ててしまいなさい。
どうやってだろうか?
それらを愛し、抱き容れ、
自分の存在の中にそれらがあることを許すことによってである。
ひとたびあなたがそうしてしまえば、
それらが再びあなたを抑えつけることはなくなる。
それからは、生きることの素晴らしさを透明な視界を通して見ることができ、
愛を価値判断なしに感じることができ、
ただ在ることの喜びが無限に
「知っている状態」の力となることができるのである。

 自分の人生を抱き容れることだ。
自分が神聖なる存在であることを知り、
これまで自分がしてきたことすべてがあったからこそ、
自分という存在の強さがあるのだということを知りなさい。
罪悪感など持ってはならない。
悲しみに浸るなどという、つまらないまねごとはやめ、
自分に重荷を背負わせるのをやめるのだ。
他の人間のせいにしてはならない。
その責任を自分の手で掴むのだ。
それはあなたのものなのだ。
 
 さて、これまであなたが価値判断を下してきたことをすべて抱き容れ、
軽蔑してきたものをすべて愛し、自分のすべての幻を生き、
自分のすべての夢を追い求めてしまったとしたら、どうなるだろうか?
あなたは、
他の人々がそういったものを自分たちの学びのために体験しているのを見て、
それを理解し、彼らに対して思いやりを持つことできるようになる。
そのとき、あなたは、
「父」があなたを愛するのと同じように彼らのことを愛することができるのだ。

************



さて

今日の共鳴は

共鳴で

導き出される本来の自分自身は

そのズレが無い

自分自身であるもの


神聖さというのは

善悪を超えて

在るものの

真っ直ぐさ

あまりにそのものの純粋さ

なのだなと思いました

素晴らしいですね。


どうもありがとうございました



始めの共鳴は






わたしに

この先の人生があるのでしょうか



あの瞬間に

すべて止まりました


止まったままの

人生がそこに

ずっとずっと置き去りにされたままです



人として

許さなくていい

(無空さんの言葉です

でもそれは

聞きたい言葉でもありました

それで

肯定されたのです)








罰するように

そのあとの人生を設計してきたように思います


ただ

泣くしかなかった


泣いたままの私がそこに居ました

はい。



共鳴の感想を書こうとして

そのまま

泣いています


まだまだ

出てくるようです

出てくるままに。

止まっていたものがゆっくりと動き出します。

滞っていたものが流れ出します。

止めていたものが愛に溶けていきます。

全体性、純粋さ、神聖さが帰ってきます。





録音では


始めの共鳴では

「在るところ」と言っております

アイコンタクトは

自分自身であること

安心を取り戻しているようでした

緊張がとけ

緩んでいるのを感じていました

瞑想では

本来の自分を取り戻していました

ハートの共鳴では

その明るさが増していました

立場を変えては

「これ」だけ

立場なし・ニュートラルは

はじめにお話していた

やるせない「そこ」に

神聖さが差し込みました



深い

ヒーリングを受けていたように感じました



貫かれないものはない

癒されないものはない

それそのものである

そのことズバリ

という締めくくりでした

そうですね。





どうもありがとうございました

まだ

繰り返し

ぶり返し

その悲しみも味わうことになっているようです

くぐって

くぐって

そればかりが続くわけではないので

そうでない時は

ただ明るさが差し込んでいるようなことです


それでいい

そんな風に力を抜いて感じています

それは、大きく、やわらかく、あたたかい在り方、

やさしい在り方、

深い愛の在り方でもありますね。




ありがとうございました


まとまらない感想ですが

このまま送りますね

ありがとうございます。


また来週どうぞよろしくお願いいたします






こちらこそよろしくお願いいたします。

無空

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